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万華鏡の日

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 近頃うちの露天風呂に大量の猿が忍び込み、勝手に湯船に浸かってしまうので困っています。
 かんたんな鉄柵でもつけたらいいんじゃないの、と僕は言って聞かせるのですが、そんなことしたら風呂場からの眺めが悪くなってだめじゃないか、と言い張って兄は譲りません。
 あなたはどうすればいいと思いますか?

 


 どうにも寝心地が悪くて目が覚めた。
 その理由は単純で、私が寝ている間にこいしがタオルケットの中に潜り込み、体の上に覆いかぶさっていたのだった。覆いかぶさっていると言っても、熱い抱擁とか別にそういうわけではなくて、圧迫感は確かにあるけれど重みは感じない、という不思議な状態だった。どうやら布団の中でこいしは微妙に自分の体を浮揚させているらしい。バラの花びらのふんわりとした香りが寝起きの鼻をくすぐる。
「……えっと」
 その上、どういうわけか私のサードアイをごそごそと弄くっている。ざらざらとして硬い質感の、得体の知れないものを瞳の被膜にしきりに押し付けている。どうにもくすぐったくて仕方がない。
「ねぇ、こいし」
「おはよう」
「一体何してるの」
「えっとね、大実験」
「……大実験?」
 姉の体を使って大実験をしているらしい。大実験……えもいわれぬ不安がつきまとう言葉だけれど、何の大実験なの、とあえて訊く気は特に起きなかった。こちらが具体性を求めれば求めるほど、無意識的に抽象性の方向に猛スピードで突っ走っていく子だから、そういったことを訊くのはあまり意味がない。言うまでもなくこの子の考えていることなど私には分からない。サードアイを使っても仕方がない。私は無意識の下で生きているヒトの思考なんて読むことはできない。
 いったい何をしているのか直接見たほうが早いと考えて、私は自分とこいしをいっしょくたに包んでいるタオルケットを剥ぎとり、ベッドの脇にあるランプを点けた。
 タオルケットの中から姿を顕わにした妹がしていた作業は、何というか、いつも通りの意味不明というべきか、私のサードアイの上に黒い正三角柱の筒をあてがって、その接面を布テープで何重にもぐるぐる巻きにしている最中だった。正三角柱はおおよそ一尺くらいの長さ、底面はこいしの手のひらと同じくらいの面積で、三つの側面はおそらく黒色の厚紙を貼り合わせて作られている。几帳面にもぴったりと貼り合わされた角をよく見ると、布テープの白い切れ端がはみ出している。どうやら手作りらしい。
「ねえこれ万華鏡って言うんだよ、万華鏡って知ってる?」
「知ってるわ」
「これ付けてお姉ちゃんが心を読むとどうなるのかわたしすごく気になったの、だからやってみよと思って」
「……そう」
 そう、としか私は答えなかった。この子は私の心情とは関係なしに地霊殿から出ていきたいときに出ていくし、何日もいなくなったかと思えば帰りたいときに突然帰ってくるし、私の知らないうちにお燐やお空を何回も外に連れ出していたり、私の知らない地上の友人と遊んでいたりするようでもあって、だから姉と同衾したいときに同衾して姉に万華鏡を嵌め込みたいときに万華鏡を嵌め込むのだって、そう、と答えるしかないような気がしてくるのだった。この子の行動原理を「~したい」という言葉で表していいものかはよく分からないけれど。
「今夜また来るからこれの感想聞かせてよ」
 仕事を終えたこいしはそう言い残すと、私が眠い目を指でこすっている間にどこかに消え去ってしまった。

 


 サードアイに接続している六本の桃色の管の先に、無愛想な見てくれの正三角柱をだらりと垂らして寝室を出る。
「え、さとり様それどうしたんですか?」
 身支度を整えてキッチンに向かうと、開口一番、朝食の準備をしていたお燐にそう言われた。朝食といっても私の朝食ではなくペットたちの朝食で、最近は若干古めの挽肉を消化しているらしく、微妙に食欲の湧かない匂いが鉄鍋から漂っている。
「こいしが、今日は万華鏡を付けて過ごせって」
「え……あぁ、そうなんですね。万華鏡ってあたい名前しか知らないです」
「結構綺麗よ。三枚の鏡を貼り合わせるだけだし、お燐も簡単に作れると思う」
「はぁ」
 さして興味がなさそうにお燐は返事をし、鍋の中に視線を戻した。あくまで、興味がなさ「そうに」で、興味がない、とは断定することができない。
 ようするに、私はお燐の心を読めなくなっていた。
 キッチンのドアを開けてお燐の姿を認めたときに、私はすぐにそのことに気が付いた。今や私は、こいし以外の、ちゃんと意識の下で生きているヒトの思考も読めないのか、ということに気が付いた時には一瞬ひやりとしたけれど、いやまあ当たり前か、とすぐに思い直した。
 普通の目に万華鏡を装着しながら生活しろ、というのはおそらく拷問だろうと思う。視野を埋め尽くす多角形の四方八方から対象が出現して回転して見切れていく生活なんて、距離感をどう図ればいいのか分からなくなってしまう。通行人や犬が道端の穴に落ちたり、魚人が池の中で溺れたり、天狗や巫女は山肌に激突して死んでしまったりして、おそらく大変なことになる。
 じゃあサードアイに万華鏡を装着しながら生活しろ、というのは、通常の目に依る視界が幾何学の世界に持っていかれないだけまだましだけれど、それでも、心を読むときにも距離感というものは大切だから、やっぱり不便なのではないかと思う。距離感とはすなわち、心の深層にうっすらと漂っている思考を逃さずにすくい取ること。その一方で、過剰で過激な思考は少しだけ控えめに読み取ること。サードアイも普通の目も結局、外部情報の受容器という点では同じで、入力された情報の処理は私の頭が請け負う仕事であって、しかし頭の方が適切な仕事をするには入力された情報そのものが適切である必要がある。距離感を失ったサードアイを使い続けることは危険ですよ。そう、私の体は無自覚に警告しているのだろうと思う。おそらく、ある種の心理的、精神的な免疫が働いている。そんなものが本当に存在しているのかはさておき。
「あの、余計な事言うようですけど」
 お燐が再び私のほうを向いて言う。
「何?」
「あー、何? って訊くってことはやっぱ読めないんですねぇ、あたいが今考えてること」
「まあそうね」
「外せば良くないですか? その万華鏡」
「冷たいこと言うわね、せっかくこいしが作ってくれたのよ」
 私がそう返すと、お燐は目を丸くした。どうも予想外の返事だったらしい。
「別に、一日くらい読めなくたって差し支えないわ」
 サードアイが使えなくたって、自分が飼っているペットの気持ちくらい私はあらかた読み取ることができるのだから、差支えないはず。あくまであらかただけれど。

 


 お燐から調理済みの餌を受け取って別れたあと、まだお空やお燐ほどには成長していないペットたちを放し飼いしている庭に出た。私の姿を認めると、彼/彼女らはみな不揃いな歓声を上げ始める。おそらく、私の右手に握られている餌入りの袋がそうさせている。餌、と言ってもこれはペットたちが捕食した怨霊の消化を助けるための補助のようなもので、挽肉と種々の根菜と、霊芝の粉末をある決まった配分で混ぜてある。霊芝というのは地底の洞窟に自生しているさるのこしかけみたいな大きなきのこで、椅子にも加工されるくらいには硬くて大きいので、たまに本当に猿が腰かけて休憩していて、沢山いるとそれなりに可愛い。……そんなことはともかくとして。
 万華鏡つきのサードアイに関して、つい先程ふと思いついたことがあり、私はそれをこの庭の真ん中で試そうとしていた。
 動物たちの喧噪に囲まれながら、私は両目をつむってみる。すると、じっくり十秒ほどの時間をかけて、万華鏡越しの風景がまぶたの裏側に立ち現れてきた。
 視界は一面、ガラス製の正三角形によって隙間なく敷き詰められている。正三角形の単位を六つ寄せ集めると正六角形になるから、万華鏡の視界は正六角形の繰り返しによって敷き詰められているともいえるかもしれない。それぞれの正三角形の辺からは、灰色、黄色、茶色、緑色、ほかにも様々な色をした、輪郭のぼやけた思考の粒子がちらりと顔を覗かせ、やがて面の中を漂い始めて、再び辺の外側へとフェードアウトしていく。灰色はおそらくねずみの思考、同様にして、黄色は狐、茶色はひきがえる、緑色は草亀、もし思考がペットたちの体色と対応しているならばそういうことになる。鏡によって作られた海の中を、無数の思考たちが微生物のように蠢いている。でも思考の粒子は当然ながら本物の生命のように自由奔放に泳ぐわけではなくて、あくまで正三角形の単位の中でしか泳ぐことができないようだった。サードアイに接続された小さな覗き穴が照らし出す心象に閉じ込められているからだろうか。
 その光景は思いがけず純粋に綺麗だった。目の視覚情報を遮断してみると、サードアイが視ている景色が本当に現れるとは。どうもサードアイは思考を色として捉えているらしい。この瞳には心を読むという機能しかないものだとずっと思っていたから、ちゃんと普通の目に準ずる視覚的な機能もあったのだ、ということを今初めて発見したことになんだか愕然とする。私は覚り妖怪として何百年も生きてきたのに。
すると背後でばたん、ばん、と勢いよく扉を開け閉めする音がしたので、振り向くと正三角形の縁から巨大な茜色の粒子が出現した。私は驚いて思わず両目を開く。
「さとり様、つっ立ってどうしたんですか、ていうか、その、サードアイに変なのついてますけどどうしたんですか」
 お空が目の前に棒立ちしていた。お空の思考はどうやら緑色ではなくて茜色らしい。眉をひそめて、心配そうな顔をしている。心配「そうな」顔を。
「別に大丈夫よ。お空はどうしたの?」
「……ん? あー、さとり様、これからペットにえさをあげるんですよね」
「そうよ」
「わたしも手伝いに来ました」
「あらそう、ありがとう」
 あのー、おたまじゃくしが最近、わたしの中で、なんていうかこう、すごくいいんですよね、とぶつぶつ言いながら、お空は餌の袋を私から受け取ると、その中身を一掴みして石造りの溜め池にぱらぱらと放り込む。すぐさま大量のおたまじゃくしが水面に浮上して、焼けた挽肉の茶色い粒をつつきはじめる。
「……」
 私はふと思い立ち、溜め池の中をサードアイで覗きながら目をつむってみることにした。するとゴマ粒のような思考の黒点が大量に万華鏡の視界に現れる。大量に発生したボウフラが遊泳しているみたいで少し気持ちが悪い。身もふたもない感想だけれど。
 再び目を開けると、横にいるお空が不思議そうな顔でこちらを見ていた。二、三秒の沈黙が私たちの間に流れる。ペットたちの息遣いと水面から顔を出すおたまじゃくしのぴちゃぴちゃとという音が妙にはっきりと耳に届く。
「あの、そういえば」
 先に口を開いたのはお空だった。
「さっき、ちゃんと灼熱地獄の温度管理は終わらせました。ごめんなさい、最近こいし様といっしょに外に遊びにでることが多くて、おろそかになってたんですけど」
「……え? 急にどうしたの、別に、私何も注意してないじゃない」
「いやでも、前々からさとり様に言おうと思ってたのにいっつも何言おうとしてたか忘れちゃって、でもいまようやく思い出したので言いました」
「……ふふ、そうなのね」
 頭の中にいろいろな言葉が浮かんでは消える。それは考えすぎかもしれない、家族なのだから、別に先回りして謝らなくても、私はべつに怒らないのに、といったような。
 とはいえ私も、完璧に心が読める状態であれば、相手に何か言われる前に先回りするというのはよくやる手法であって、例えば態度としては下手に出る癖に内心こちらを見下しているような、もしくは自分の思うように周りが動かなければいじけてしまうような御仁に対してそういう立ち振る舞いは特に有効だと思う。ただ、そんな打算的な先回りは完璧に心を読める私だからこそできるのであって、お空の先回りはもっと漠然とした不安からくるものにすぎない。私に仕事のことで注意されるのではないか、という不安。お燐やお空、その他サードアイを持たないすべての人々も、「~そうに」「~そうな」という不確かなやり方で他人の心はある程度読めるわけで、ただし誤読や深読みの可能性も十分あり、つねに不完全性が付きまとう。
 ……そうだとすれば、サードアイを使えない今の私が、完璧に心を読めないことに対して特段不安を感じていないというのは、ある意味奇妙なことなのでは?
 そんなことを考え込んでいたら、お空はすでに私の隣から離れて、巨大なオウムの頭を撫でながら、もう片方の手で餌皿に挽肉を流し込んでいた。
「ねぇ、お空」
 私は呼びかける。
「うん? 何ですか?」
「ちょっと忘れっぽいのは確かだけど、私はお空のこと信頼してるのよ? いつも」
 私がそう言うと、お空はこちらに体を向き直し、あからさまに頬を緩ませて、みょうりにつきます、と言い慣れていない口調で言った。
「誰からその言葉聞いたの?」
「え……っと、こいし様……ですけど」
「ふふ、ちょっと使い方間違えてるかもしれないわ」
「……あのー」何だか言いづらそうに「やっぱりさとり様、心読めなくなってます? その、声に出して質問をするから」
「今日限りだから大丈夫よ」
 諭すように私は言った。それでもやはりお空はどこか心配そうな顔をしている。

 


 軽い昼食を取った後、自室に戻って、旧地獄の管理に係る諸々の書類に目を通して判子を押したり、明後日の午後に地霊殿の大広間で行われる会議の段取りやら挨拶文の文言やらを考えたりしてゆったりと過ごしていた。
 この前旧都の某所で事故が起こったので、誰がどういう風に処理するべきか話し合おうということになり、その会議のとりまとめ役と場所の提供を私が引き受けることになったのだった。事故というのも、数年前に閉業して老朽化した温泉施設をいざ取り壊すという段になって、作業を請け負っていた鬼たちの仕事ぶりがあまりにも粗雑なものだったから、建屋の下にあった怨霊だまりを間違えて掘削してしまったという間抜けな事故であって、なんで私がこんな会議の議長を請け負わなければいけないのか、と正直文句を言いたくなるけれど、近隣一帯が怨霊まみれになって立ち入れなくなったという話であり、私は仮にも旧地獄の管理者なので仕方がない。あとはまあ、古明地さとりは心が読めるからこういう会議にぽんと置いておくだけ便利、とでも思われているのだろう。まあ実際自分は便利だと思う。私ほど的確に話し合いを進められる者はたぶんこの地底にいない。ああでもそれなら、明後日までに万華鏡は外さなければ、もしくは外してもらわなければ。
 そんなことを考えていると、ノックの音が三回鳴った。
「あたいですー、入っていいですか」
「ええ」
 立ち上がってドアの鍵を開けてやる。あーどうもー失礼しますー、と少し間延びした声で言いながらお燐は部屋の中に入り、そのままベッドの端に腰かけた。ワンピースからいつもよりも濃い死臭が漂っている。
「今日の死体集めはだいぶ捗ったみたいね」
 私が開口一番そう言うと、お燐は一瞬ぽかんとした顔を見せたのち、ああ、分かります? 今日すっごい大量だったんで、と口の端を三日月形に歪めて言った。
「ていうか、まだ万華鏡、つけてるんですね」
「ええ、夜までそのままにしておくつもり。また来るから感想聞かせて、って朝こいしに言われたから」
「へぇ、てことは今日こいし様ここに来てくれるんですね」
「多分ね。お燐が直近でこいしに会ったのは?」
「確か一週間前ですかね。地上の、神社の参道で」
 へぇ、そうなの、良かったじゃない。私はそう返しながら、そっと目を閉じて万華鏡の先をお燐に向ける。紫色の毒々しい円が正六角形の頂点から現れて、視界をゆらゆらと揺れる。どことなく鬼火の揺らめきにも見える。庭に居た動物たちの粒子よりは大きいけれど、お空の粒子よりは小さいという大きさだった。
「それにしてもなんか不思議な感覚ですね、さとり様から質問をされるって」
「そうなの?」
「だってさとり様、いつもは私たちの頭の中のこと全部読み取れるから、質問しないんですよ」
 そうか、と思った。私はなんでも一人で勝手に読み取って納得してしまうから、会話相手に面と向かって質問することが普段少ないのか。
 そういえば、サードアイを閉ざす前のこいしとは、お互いに言葉を介さなくても意思疎通ができた。当たり前と言えば当たり前だけれど。言葉なんて不自由で不器用なツールを使うよりも、確実に自分の思っていることを伝えることができるのだから。
 そして瞳を閉ざしてからは、こいしは並一通りの、心を読めない者たちがそうしているような、言葉を介した質問や返答をするようになった。こいしが発する質問や返答に「意図」や「意思」といったものは果たして含まれているのか、という問題はこのさい置いておく。
 私は最初のころ、思考の受信も送信もできなくなった妹との慣れない会話にしばらく四苦八苦していた覚えがある。今のお燐やお空も、心が読めない私と会話するのはちょっと変な感覚、という状態なのかもしれない。でも一方の私は心が読めない、という状況にそこまで焦りを感じていない。どうしてだろう。心を読む、なんて悟り妖怪のアイデンティティのはずなのだけれど。
 大実験、というこいしの言葉が頭によぎった。
「……」
 管の先にぶら下がった万華鏡を右手で持ち、改めてまじまじと見つめる。それから左手の人差し指で、執拗に巻き付けられた布テープの端を爪で引っ掻こうとして、
「あの、なんか私まずいこと言いました?」
「えっ」急に飛んできたお燐の声に私は顔を上げた。
「いや、別に何も。どうして」
「あ、いや、さとり様なんか突然黙り込んじゃったので」
「……あ、ああ確かにそうだったわね、ごめん」
 私がそう返してなお、お燐は小さく首を傾げて不思議そうな顔をしていたけれど、すぐに何か思い立ったような表情になり、懐から一枚の封筒を出した。
「お伺いした要件を忘れてました。郵便受けになんか変なのが入ってたんですけど、さとり様、何か知ってます?」
 受け取って見てみると、封筒の真ん中には、くだんの温泉の名前が可愛らしい丸文字で縦書きされていた。

 


 私はいま、二人分の着替えが入った袋を提げながら、旧都の繁華街の上空をゆったりと浮揚している。怨霊の漏出事故の現場になった温泉旅館は、旧地獄の北東の地区にあって、まあ地霊殿から歩いて行ってもせいぜい三十分くらいで着くのだけれど、飛ぶほうが純粋に手っ取り早いし、それに何よりも、大量の通行人を一つの視界に収めることのできるこの場所で試したいことがあったのだった。
 地底において、朝、昼、夜という概念は、三度の食事や起床、就寝といった規則的な生活のリズムを作りたい住人には利用されている。地霊殿に住む私たちも含めて。一方、旧都でどんちゃん騒ぎしながら生きている連中にそんな概念はない。彼/彼女らはつねに夜の中を生き、またその夜を照らすための提灯と行燈の光の中で歩き続ける。
 私はひんやりとした空気の中で体勢をうつぶせにすると、万華鏡付きのサードアイをだらりと体から垂らした。そしてしっかりとまぶたを閉じる。
「……」
 思い描いていた光景が現れて、でもそれは感動よりもむしろ安堵を私にもたらした。サードアイを閉ざして久しいこいしにも、もしかすると時折、まぶたの裏側にこのような美しい光景を幻視する瞬間があるんじゃないかしら、そんな思いつきが私の脳裏をよぎる。ただ自らが存在している位置だけを伝える思考の粒子。たとえその内容が分からなくても、このようなかたちで網膜の表面に捕まえることができるのなら、まあそれはそれで幸せなのではないか。いや、もし本当にこの景色がこいしにも見えていたらいいな、というだけの話で、それを当人にあえて確認しようだなんて思わないけれど。
「……いや、でもまあ」
 私自身はそれでも、景色なんていう一過性のものと引き換えに、瞳を閉ざすことはありえないだろう。
 それだけは確信していえる。


 飛行を終え、すでに全体の半分ほどが取り壊されている廃旅館の玄関付近に着地した。あたりを見回してみたものの、こいしの姿は見つからない。
「ねぇ、こいし」
 私は呼びかけてみる。返事はない。
 仕方がないので手紙に書かれていた通り、露天風呂の跡地らしき場所に飛んでいき様子を見てみる。当然ながらお湯は涸れていて、湯船に浸かっている猿の姿などどこにも見えない。穴から抜け出した間抜け面の怨霊がふわふわと漂っているだけであって、もしかして彼らが猿の怨霊とでも言うのかしら、と思う。そもそもなんなんだろうあの手紙は。鉄柵でもつけたらいいんじゃないのって、猿は鉄柵なんてよじ登って飛び越えてしまうだろうに。
「お姉ちゃん、なんで手紙の差出人が私だって分かったの?」
 背後から突然声がして、私が反射的に振り向くと、一秒前まで全く気配のなかった妹が無表情で突っ立っていた。
「……いや、その、まあ、明らかにこいしの筆跡だったし」
「え、そうだったの?」
「え、あの手紙、こいしが書いたんじゃないの?」
「いや、私が書いた」
 私の質問に、こいしはあっけらかんと返事をする。ひとつ前のこいしの質問とさっぱりかみ合っていないことは気にしても仕方がない。最早私たちはいつもこんな会話ばかりだ。そういえば、こいしとお燐、もしくはこいしとお空が二人きりで会話するとどういう風になるのだろう。そんなことが不意に気になり始める。盗み聞きでもしない限り、私は一生知ることはないだろうけれど、まあそれならそれで別にいいと思う。
「ねえ」
「何?」
「今日は地霊殿で一緒の夕食にしない? 二人で温泉に入って、それからうちに帰りましょ」
 私が着替えの入った紙袋を掲げながらそう言うと、こいしは目を丸くした。
「こんな怨霊まみれの温泉に入るの?」
「そうじゃなくて、ここから少し歩いた先にある普通の日帰り温泉」
「私は別にいいけど、お姉ちゃんは大丈夫なの? 旧都にはお姉ちゃんのこと嫌ってるヒトも沢山居るでしょ」
「私は元々、自分を嫌ってる人のことがあんまり目に入らないから、別に……」
「あー、そういえばそうだったねぇ、忘れてた」
とからかうような口調でこいしに返されたあと、数秒遅れて、何か自分でも信じられないくらいの焦りが熱を帯びて首元から這い上がってきた。何をしているんだろう。私はたった今、こいしに向けて言うにはものすごく不用意な言葉を口走った。改めて気付かされる。あなたの心さえ読むことができれば、と私は常に願い続けている。こんな迂闊な言葉であなたを傷つけなくてもいいように私はなりたい。
「温泉に行くんなら、それ邪魔でしょ。私が外してあげよう」
 そう言ってこいしは私の管の先にある万華鏡を丁寧な手つきでつかむと、その先端を自分の顔の前に引き寄せた。
 私はゆっくりと両目を閉じてみる。まぶたの裏側に広がる無数の正三角形に、墨を落としたように一つの黒い点が現れる。点は色の密度を変えることなくみるみるうちに広がっていき、透明な背景を塗りつぶしていく。やがて一切の透明な隙間が埋め尽くされて、視界は闇に包まれる。ちょうど両目を閉じているのとまったく同じ、茫漠とした暗黒がただそこに広がっている。万華鏡が外されてもおそらく変化することがない、見えるものが存在しない心象の風景。
 いや、それでも私はこの視界を受け入れて、あなたと言葉を交わし続けよう。
「ねえ」
「なあに」
「いま私の瞳に何も映らないのは、こいしの思考が読めていないからなのかしら、それともこいしの思考は読めていて、それが黒色の円として現れているからなのかしら?」
「え、お姉ちゃん何言ってんの? 何のことか全然分かんない」
「……本当に?」
「本当だよ」
「じゃあ別になんでもないわ」
「うん。何でもいいと思う。それより楽しかったでしょう、心が読めなくなるのも」
「いやそれでも、私にとっては心を読める方が楽しい、だけど」
 先に続く言葉が私の口から出ようとしたそのとき、突如として視界全体が揺らめき、分厚い暗闇の壁がひび割れて無数の光の筋が隙間から差し込んできた。眩しさに私は思わず両目を開く。こいしは悪戯っぽい笑みを浮かべながら、万華鏡と私を接続していた布テープを細い指で慎重に、慎重に剥がしていた。

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